「資源としての善意」について、橋渡しを試みてみる。

id:hatesenIDさんの質問へのお返事。
cf.http://h.hatena.ne.jp/hatesenID/9259269308509074991
cf.http://d.hatena.ne.jp/the_end-of_the-world/20100504/1272939070

 まず「資源としての善意」という表現は、どういうかたちにデザインされた「善意」が社会にとって有益かというような視点で「善意」を眺めていることに注意しなければなりません。これは前提からして集団の話です。たとえばhatesenIDさんの言う「行動基準」のような個別的なことについて言ってるわけでは必ずしもないと思います。
 たとえば、悲しいことがあったときに独りで祈る習慣を共有した集団と、悲しいことがあったときに利他行為を行う習慣を共有した集団では、どちらが集団として合理的か*1、という話で。
 木と世界の例えで言えば、「世界」のために有害であっても子どものために木を切ることを善意と呼び愛と呼び良心と呼ぶなら、その「善意」を社会にとって有益なべつの行為に振り向けうるようなかたちに「社会」の側からデザインしておくことが大事だ、ということをid:the_end-of_the-worldさんは言ってるのだと理解しています。たとえば端的には、その子どもを殺した上で「子どものことを愛しているならお前はその分まで生きなければならない」とあなたに告げうる制度あるいは規範あるいは物語が必要だ、という話かも知れない。
 れがあなたにとって幸せであるかどうか、とか、あなたの意に添うかどうか、とかそういうことを問うた話ではないし、あなたはこうすべきだ、とかいう話ではないです。
 どのような制度に荷担すべきか、どのような規範を押し付けるべきか、どのような物語を語るべきか、そういう命法として受け取ることはできるかも知れませんが、それも終世界さんの意図ではなさそうな感じ*2


 私個人の趣味の話をすると、独りで祈るのが好みです*3。ただ、制度としての「良心」にも、部分的に同意することもあります。そういう態度なので、集団レイヤでの「大事」さには同意したわけです。
 木と世界の例えを再び引っ張り出せば、ヘタレであるところの私は最後まで子どもを殺す選択肢を積極的に選ぶことはできないでしょう。しかし、先を見れば自らを殺すことに等しい、木を切る選択肢を選ぶことにも積極的になれるかどうかは疑問です。そこに私の意図と関係なく子どもを殺してくれる装置があり、その装置が私に良心さえも保証してくれるなら、私はそれが与えてくれる良心にすがってしまうかも知れません。そしてそれは集団のあり方においては合理的たりうる。
 いま現在の私個人はそのような「私」を非常に非道徳的であると信じますが、しかし、いま現在の私から見た非道徳と、極限状況における私の「良心」と、社会が存続するための「良心」とが重なりうることはこの例で示せたと思います。id:PledgeCrewさんの意図した「小文字の良心」とは明らかに違うものですが、しかし「私」にそれが「小文字の良心」でないという判断がつくでしょうかね。いま現在の私は、つかないのではないかと想像します。もう少し正確に言えば、いま現在の私からその区別がつけられるという事実あるいは信仰は、他のなにかを語るものではない、ということです。
 極限状況(たとえば木を切らなければ目の前の人間が死ぬが木を切ればいずれみんな死ぬ、という状況がそうですが)においてこそ、個人の道徳や良心(ひいては責任)ではなく、制度や規範を問わねばならないと言ってるのが終世界さん、じゃないだろうか。



 このあたりからPledgeCrewさん宛。微妙に後ろから続いてますけど。
cf.http://h.hatena.ne.jp/PledgeCrew/9234077311045109698

棚上げにしていることでも、たまには「   」をあけて覗いてみることも無駄ではなかろうと。

 上で「他のなにかを語るものではない」と書いた通り、無駄だと思います。あるいは、括弧を開けられないことを確認するための営為なら無駄とは思いませんがそういうことではないのですよね?

そもそも、私が自分の記事で言ったのは、各人の「良心」という装置には一定の共通性があるだろうということ以上でも、以下でもありません。

 了解しています。
 hatesenIDさんが言ってるのは、「世界」の一意性が「私」をして「世界」を存続させる選択肢を選ばせうるのではないか、という話です。宇宙船地球号。PledgeCrewさんが言ってるのは、これまで「世界」を存続せしめてきた「良心」という装置をもう一度信じよう、という話です。結論としてお二人が選ぶ善の方向性はおそらく真逆ですが*4、徳目を選びとるために最初に立てた仮定の一部は同じではないかと考えるところです。
 ところでブコメで呼んだのは、目の届かないところで揶揄してると思われるのもヤだし、でもお二人の信仰に共通した部分があるなと思ったのは言いたい、というだけで、応答を求めたわけではないです。負荷をかけたなら失礼。

*1:という価値判断が可能=マネジメント可能

*2:このあたりの私の理解はスゲー曖昧です

*3:虐殺器官』は、『好き好き大好き超愛してる』は、私にはそういう話として読むことができました

*4:相違点はたぶん共感を前提するかしないか